4月に入っても春休みが続いて、息子のご飯係が続いていましたが、
ようやく登校、始業しました。
主婦の立場で日常うろうろしているなんとも遊んでばかりの日々に
申し訳ない気持ちもありますが、
自分の中の空洞をどこかに求めないとやっていけません。
母が上京し、かかりつけの大学病院で眼科検診があるので
二人で遅くなったお互いの誕生日お祝いランチを
高島屋でしました。
その後、母は病院へ、私は近代美術館の念願の「ベーコン展」へ。
ベーコン、色々いわれて、論評なども様々ではあるけれど、
結局はつまり、とてつもなくカッコイイのだということが
どうしようもなくわかりました。
写真が生まれ、映画が生まれた時代に
絵画の技術としての写実のスーパーテクニックから
離れることを求められた時代に何をするかということ。
芸術の世界の新しい何かを求める熱い時代だったということでしょう。
模作の悶悶のうごめきが動画のように迫ってきます。
ほとばしるなにか、叫びに近い魂の有り様をぶつけられて
一度見た人の脳裏にぬぐい去れない残像を焼き付けます。
やられた、格好良さが胸ぐらを捉まえます。
その後みた常設展の振り切れ感に戸惑ってしまいました。
消化不良を起こした中でも加山又造の「天の川」は
まさに対極にありました。
そして、
木曜日、新しくなった歌舞伎座のこけら落としに古くからの先輩友と伺ってきました。
その晴れ晴れしいことといったら、実物を見なければ
なかなか言い表せませんが、
歌舞伎座全体が観客席と一体となって
この新歌舞伎座の開幕を「言祝ぐ」「寿ぐ」一色となっていたわけです。
連れだったFさんと「ここは大人のテーマパークね!」
と一瞬も見逃さない気合いでかぶりついて観てきました。
以前の歌舞伎座の香りも残ったまま、
平成の時代にかなったサービスも満載、エレベーター、エスカレーターも完備され、
足下の心配も軽減されました。
興奮冷めやらぬ濃厚なひととき、
ご一緒できなかった方へのお土産も求め、感想を直接伝えたかったものです。
金曜日は同人誌の主さんと神田神保町へお散歩。
最近頓に老人に近づいたと弱気になってきても
回転の速い文人系の脳みそをお持ちなので、
つきあう方も心して脳みそに油を注いで回転ドアに指を挟まれないように
がんばります。
昭和の文人達が通った名残をなぞるように歩き食べした時間でした。
3,4月分の企業の華道部のお稽古が二週間続きました。
やはり、通い続けてくれる人がいるって嬉しいものです。
先生の助手見習いな私にはいるだけの係で、なんとももどかしい
存在でしょうけれど、その時間さえもが学びであると思いました。
そして、
突然の訃報にただ呆然とする日が来ました。
歌舞伎座こけら落としを一緒に見に行けると思っていたその人の
ご主人様から彼女の携帯メールアドで
14日に旅立ちましたとのご連絡。
最初、なにかの間違いメールかとしばし画面に眼が固まりました。
入院中の病院先から経過などの返信が来たのかと思いました。
急ぎ、こちらから返信しましたが、
やはりご主人からで、本当のことのようです。
お葬儀の予定を伺い、どうしようか、一人うろうろしてしまいました。
彼女の病状を知っている友人達に連絡し、
ご主人とも連絡を取り合い、参列することをお伝えしました。
愕然としたのはアートブロガー仲間も同じでした。
主婦で時間の合うときにランチしながら展覧鑑賞をしてきた
唯一の仲間でした。
まだ小学生3年生?と、今年中学生になった男の子兄弟を残して。
それでもなにがあっても時は過ぎてゆきます。
草月のお稽古はあるし、
山口晃展の内覧のお誘いを従妹からもらいます。
同人の集まりもあるし、
夫の仕事関係での観桜会にも出かけます。
雨が降り、地震があり、
春の桜は散り、緑の芽吹きの時です。
おなかは空くし、美味しいものは喜びです。
美しいものへの導きに我を忘れて出かけます。
何をしているんだろう。
なんのためにそれをしているんだろう。
心の赴くまま、惹かれるものに従って
ただ食い散らかしているだけのようにみえて、
少し、一人になる時間を求めています。
沢山の雑踏の中に紛れて何も考えずに歩いているだけの
そんな時間をぼうっと送り
そのままで、何も変わらなく、何をしているんだろう。
出かける先の美術館、博物館のそこここに彼女の眼差しが、感嘆の声が、
その記事になった文章が、
一人の母としての呟きが、とめどもなく散逸していて
光ります。
どこか、まだ信じられないところがあって、
今度のサントリー美術館、いついく?ってメール送りそうです。
彼女の悔しさを背負って、鑑賞するのは辛いけれど、
彼女の目と一緒に体験するのだと思えば、
また次に行けるのでしょう。
貴女を失ったご家族の力にはなれないけれど、
いつも心を向けていること、それは出来る気がします。
まだまだ一緒につきあうわよ、と遺影に伝えてきました。
まだ45才だった人生が終わるということ、
その衝撃の余波はまだまだ小波のように
私を揺り動かし続けています。